昭和52年02月14日 朝の御理解



 御理解 第61節
 「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。」

 神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげと。限りないおかげと言う事は、いよいよ繁盛に繁盛を重ねて行くと言う事だと思うです。そう言うおかげが受けられるのであり、そういうおかげを、人に神心となりて伝えてゆくと。昨夜ここへ遅う出てまいりまして、日々御用の日誌が置いてございますから、それをその後一読いたしました。色々まあその日の御理解やら、その日の参拝数やら感想やら、ま色々正奉仕の毎日白衣を着ておる先生方が、その日の正奉仕をするわけで。
 もう初めから最後まで、教会内の事の言うなら、責任を持ってまやっておるわけです。昨日のお届け数が九百九十九人でした。それで私がここへ出てまいりまして、一人お取次ぎをさせて頂いておるから、丁度昨日はあの千人のお届けがあった。その前の日は千十一人あっとります。本当におかげ段々頂いて来たもんであるなあと。合楽に私共がこちらへ参りまして、教会の許可を得たときに、神様から三百五十人のお届けがあったら、左のご結界を右と左にと言う事を頂いておりましたが。
 丁度ほんなら今年は十年になりますが、十年の間にそれだけのいうならば、繁盛いうなら尽きぬおかげというのは、そう言う事だと思いますね。細々とただ続いておるというだけではなくて、それを踏み広げていくのが繁盛じゃと仰るその、合楽の場合はそういう意味において、踏み広げてきておるわけであります。ほんなら私が神様から頂いて、それから、金光大神の教えを頂いて、守らせて頂いて間違いなく頂いておる、そのおかげを皆さんに、私が神心となりて伝えておると言う事になるわけです。
 神より何時までも尽きぬおかげを金光大神にと仰る。ほんならその尽きぬおかげを、私が頂いて、そしてほんなら、皆さんに毎日毎日こうしてお伝えしておるわけです。それが言うならば、真の道を踏んでゆくのぞと仰るように、それが真の道を踏んでゆく証拠に、いわゆる、真のおかげが現れておると言う事であります。それが神になるのぞとまで仰せられます。この頃は親先生、親先生と言う人が言いよった人達が、もう生神様ち言う。生神親先生ち書いてある、お届けにはみんな。
 最近なもう親神様ちこう。確かにそういう風な頂き方をすればするほどにです。おかげを頂く事だけは、やっぱ事実なんですよね銘々の上に。けども私はここんとこがね。神より上になるとは思うなと。ほう私ももう親神様になったばいなと。私がそこにあぐらをかいたら。何の親神様であろう、それこそ教祖の言葉を借りるなら、何の此の方が生神であろうぞいと。土掘りの百姓じゃと仰るように、もう本当にです。それこそ無学の商人であった私なのですから。それが神様などと言う事になれるはずがない。
 けれども教祖が仰ってる。神様はああ仰せられるとこう言ってられるですね。自分としての自覚は土掘りの百姓であり、自分としての自覚は、いうならば無学の商人に過ぎないのだ。けれども神様がああ仰せられる。これは私もそういえると思うんです。神様が直接、色々とお知らせを下さる。金光大神の教えにぴったりする。いやあ金光大神の教えは、こんなにも深くて広かったのかと、改めて分かっておるのが今の合楽です。そこになら合楽理念の確立というような、いうなら絶対の芯。
 または絶対のおかげの道と言うものを、こう明示して下さるのです。成程ここに六十一節に教えてある事がね、それを神心となりて人に伝えてゆくのが、神へのお礼であったり、それが神になるのぞと言う事が、なら私の信心をずうっと皆さんが、あのなら知らない人は、私のお話をしておる事から、私の信心の最初のころを紐解いて、皆さんが聞いて下さったり読んで下さったりすると、その通りの事なのです。私がおかげを受けておる事を、神心となりてもうとにかく、人が助かる事さえ出来ればという感覚。
 神に、それを人に伝えていくのが、神へのお礼ぞと言う事。神様へのお礼が、この様にして日々出来ておる。しかもそれが神になるのぞというのがです。例え私を呼ばれる、呼び名のなかからでも、皆さんが感じられることが出来るでしょうが。初めの間、大坪さんじゃった。御道の教師で、先生でもないのに、段、私の話を聞いて助かって下さる様になったら、もう大坪さんとは言えなくなった。
 大坪先生大坪先生とみんなが言うて下さる。まあそれが大変皆さんの耳障りになって、あの教師でもないのに、先生とその人に呼ばせると。呼ばせると言う事は絶対ないです。なら私でも生神親先生とか親神様とか、そげな事は書きなさんなち人が見たら笑う。もうどげなこつ言うじゃらわからんばいち言うて、私が教えるわけにはいかんの。こら銘々の信心でそう言うておられ、書いておられるのですから。そうしたほうがおかげを頂くならば、それでいいじゃないですか。それと言うてなら私自身としてはです。
 いわゆる無学の商人だと言う事です。ただし神様がああ仰せられるからと言う事なんです。昨日は、十三日会でもう本当に、昨日のまあ度々の事ですけれども、まあ充実した十三日会。本当に神様の願いが成就する日と仰せられるが、あのようにして神様の願いが成就していってるんだなと思わずにはおれないほどしの十三日会でした。もう一人一人の発表なさるのにそれこそ、西岡先生が司会をしておりましたが、もう司会者冥利に尽きますと言うて、一番最後に感動してあの、お礼を言うておりました。
 一番あの最後に富田川さんがまだ信心は浅いですけれども、本当に皆さんがあげんして、それこそ随喜の涙を流さんばかりにして、有難い有難いち言いなはっとが、どこが有難いか、いっちょん分からなかった。お願いをするおかげを頂く。はぁあらたかな神様だと言う事も分かってきた。一心に拝めば私のようなものでも、お知らせ下さると言う様なことまでも分かってきた。それが最近はね、そう言う事を頂くから、おかげを受けるから、有難いのではなくて、それとは反対の事の中にです。
 もうどこから湧いてくるか分からん喜びが湧いてくるという。その喜びの過程をね、もう実に見事なお話でしたですね、皆さんもお聞きの通りでした。はあ信心の喜びというのは、あのようにして育っていくんだと。継子の二人の義理の子の上には、大変厳しく躾けもしてきたけれども、言う事を聞かなかった。けれども本当にそれを、もう言うならなんていうでしょうか、自分の子じゃなくてもう、神様の子として見れれるようになったと言う事。そこに例えば三人子供さんがおる。
 自分の子供さんが一人、先妻のお子さんが二人、その二人の子供を見る目が変わってきた全然。どんなに言う事をきかんでも、いたずらしておっても、それが有難いという、その心の状態が開けてきた。私まさに神心だと思うですね。もう本当に憎たらしか、このこばっかりはもう、本当に面の見ぐるしかと、まあいうごと悪かったげなそらやっぱ。だから、かわいがろうと思うても、かわいがれなかったち言うんです。
 それが神様の子として、もう本当にまたその子の母親が、他におられるそうですから、この子が本当に真の母親に会いたいという時には、その真の母親に本当にあの喜んでもらえるような子供として、いつでもお返しできる、その気持ちで育てのおかげを頂いているという意味の事を言っておられましたですね。もう自分がもうそれこそ、一生懸命可愛がったから、もうこら誰が来たっちゃ、手放しはせんといたようなもんじゃなくて、私はその辺のところが、やはり神心のいうならば、成長だと思いますね。
 もう皆さんが一人一人発表されるのは、もう私はプロ以上だと言うて、昨日あの皆さんに聞いて頂いたんですけれども、その例えば熊谷さんなんかの発表を聞いておりますと、本当に、私共より以上ですもん考え方が。もう終着駅に普通で言うなら近い私だと。けれどもその残されておる命のある限りです。もう本当に神様にお喜こんで頂く様な、御用に立ちたい、大変お役に立ちたいという一念をです。
 もうどこでどういうふうな死に様で、自分が死のうともです、ついこの頃までは、本当に往生安楽を、いわば願うておった私がです。最近はどこでどういう死に様を致しましてもいといませんから、御用に立ちたい、お役に立ちたいと言う事を言ってられます。本当に、私はとてもその、泉尾の教会の親先生のご信心が、何時も神様に命をかけておられると言う事です。先生もだから言っておられるそうですね。私が死ぬときにもし安楽往生したら、私の言うて来たことは嘘だと。
 私が死ぬ時にはもう、七転八倒の苦しみで死ぬだろうと。けれどもみんなの巡りを、私は持っていくんだと、まあいうならば断言しておられるそうです。それこそ繰り返し述べておられますように、この命、どうなってもと言っておられます。この命どうなっても御神願が成就していく、人間氏子が助かっていくことのためならば、この命どうなってもと言う様な精神。もう本当に素晴らしい、いわば神心だと思います。だからこそあのような、やはり泉尾に。異常なゴヒレイが輝くのも当然だと思います。
 けれどもとてもこれは、私共では真似ができんと思うておりましたら、昨日熊谷さんのお話を頂いてからです。そういうものが、いつの間にか育ってきておる。とても信心なしよる、おかげ頂きよるけん、どげな御用でんさせちゃ頂くばってん、自分の息子を金光様の先生にゃさせきらんと言うのが、普通の大体一般の人達の考え方じゃないでしょうかね。いつ命を召されても、折角三人おる四人おる子供のなかから、一人ぐらいは御道の教師にお取立て頂かなければ。
 よしもし私の子供がお役に立たん時は、その孫でもこういう願いをかけておられる方達のお話でしたからね、昨日は。本当にしらなことを言うたらね。やっぱり本当にそれこそ、戎浦さんじゃないけれども、私は貴方と別れたっちゃ、御道の教師になるというたち。その願いの叶わなかったところを娘にかけておられるわけですよね。そして昨日まあ十何人かの方達でしたでしょうが、発表されたあれほどしの信心が出来、あれほどしのお話が出来られるのであるから。
 最後に秋永先生が言っておりましたが、あのお話が真実あなた方のものであるならばです。あなた方にあれだけのおかげが立ち現れるだろうという意味の事をいっておる。あれが真の事であるならば、言うなら真のおかげが必ず現れるであろうね。そこで今日私はあれをです人に伝えてゆくのが、神へのお礼であり真の道を踏んでいくと言う事になるのだと。そういう沢山な所で発表すると同じように、自分の周辺の例えば難儀な人達にでも、神心となりてその事を伝えていくと言う事が神になるのだと。
 今日私はこの六十一節を、ただ私自身の事を聞いて頂いたんです。言うなら無学の商人から、今日私がねそれこそ、神様のようなまた実際取り扱いを皆さんから受けております。そういうおかげを頂いておるけれども、私はどこまでも無学の商人であって。ただ神様がああ仰せられるだけのこと、皆さんがああ言われるだけの事。神様がああ仰せられるから、仰せられることを、金光大神のご信心と私の信心とを。織り混ぜてしかも確実に、私が体験を踏んまえて、皆さんに伝えているのである。
 しかもほんならどうぞ皆さん助かって下さいという、ほんならあんたどんが助かったならばいっちょ、お供えがどんどん出来るごつなるじゃろけんでと言った様な事ではなくて、もう助かってさえ貰えば良いという、その神心で皆さんに聞いて貰う所にです。いわば尽きぬおかげ。言うなら十年前やら、三百五十になったら両方のご結界ぞと、神様が仰ったがそれはもう、半年もせん先にあの両方のご結界になり、現在ではほんなら三人の先生方がお取次ぎをせんならんと言う様に。
 おかげを頂いて昨日がちょうど千名、その前の日が千十一名、その前月次祭の時には、やはり千何時も千四、五百はあります。と言う様にです。本当に尽きぬおかげというのは。尽きぬおかげが、しかも踏み広げて通っておるようなおかげがです。神心となりて人に伝えてもらう伝えさせて貰う。それが神様のお礼になっておる証拠に、神様がまた次のおかげを下さってある。またそれが伝えられる。
 またおかげを頂いていく。そういうおかげの中からです。神より上になるとは思うな。なるほどそういう信心をしていきゃ、人が神様神様と言うてくれるようになるだろうと思うです誰でも。けれどもほんなら言われておる本人は。神様がああ仰せられるのであって、私は何の神であろうぞと。土掘りの百姓じゃという、その辺の自覚のところを、教祖自身がおありになったから、こう説いてあるんだと、こう思いますね。今日は私の事を聞いて頂いたんです。
   どうぞ。